■夢を現実に
「日本」という国名を冠した科学技術大学をエジプトに設立する。そんな壮大な夢が初めて語られたのが2004年3月エジプトで行われた「第二回 日・アラブ対話フォーラム」でした。その背景には、2001年に起きたアメリカ同時多発テロを契機に、欧米諸国への留学機会の減少、それに伴う科学技術人材育成の危機に直面するエジプト国がありました。「本当にエジプトは日本という国名を冠した大学をエジプトに作るのか」と、要請書を受け取った日本政府も困惑したと言います。それでも両国政府の度重なる議論を経て、2008年10月JICA技術協力プロジェクト「エジプト日本科学技術大学(Egypt Japan University of Science and Technology: E-JUST)プロジェクト」がアレキサンドリア・ボルグエルアラブ市で開始されました。E-JUST設立に向け、JICAは日本の12大学からなる大学支援コンソーシアムを形成し、東京工業大学、京都大学、早稲田大学、九州大学の4大学が中核となり現地への教員の派遣、カリキュラム開発、教員採用、専攻運営戦略の立案などの支援を開始しました。そして2010年2月、E-JUSTは30名の学生と共に大学院大学としての産声を上げました。
2008年当時のキャンパス建設予定地
E-JUSTの歴史は苦難の歴史です。開校したものの、進まないキャンパスの建設、学生寮を改造した教室や実験室、国立大学でも私立大学でもないE-JUSTが準拠する法の欠如、直撃するアラブの春と社会の動乱などに直面し、それでも、国際協力という枠組みを超えたパートナーシップ事業として、両国の大学教員、政府関係者、JICA関係者がその発展に奮闘してきました。そして、2016年には国際入試を実施し、アフリカからの留学生の受け入れも開始され、2017年には、「工学部」と「国際ビジネス人文学部」も開講されました。
その当時エジプトの国立大学には、カイロ大学28万人、アレキサンドリア大学17万人という大学無償化政策に伴う教育のマスプロ(大教室で大勢の学生に講義を行う形態)化、座学中心の知識伝達型教育と脆弱な研究環境、産業界とアカデミアとの断絶という現状が立ちはだかっていました。科学技術を支える高度人材育成に加えて、このようなエジプトの大学のモデルとなることもまたE-JUSTの使命です。そしてE-JUSTが進めてきたのが、大学院教育における「研究室教育」、学部教育における「理工基礎教育と実験実習授業」および「日本式ゼミ教育」の実践です。
■工学系大学院における研究室教育の実践
一般的にエジプトでは、大学院はコースワークが中心で、研究も教員と学生が一対一の関係で指導に当たります。他の学生や教員との連携は限定的で、学生の持つ研究テーマを教員の指導の下、進めていくことになります。そこに導入したのが「研究室教育」でした。研究室教育とは、研究室という特定の研究テーマを有するコミュニティにおいて、学生や教員等多様な構成員とともに協働的な研究の実施を通じて人材を育成する教育です。プロジェクト開始時に、日本を視察したエジプト人教員は「日本の研究室で、教員と学生が一緒になり研究を行っている姿を見て、文化の異なるエジプトで適合するのかわからない」と言っていました。それでも、エジプトでの導入に向け、エジプト人教員を日本の大学に一定期間派遣したほか、日本人教員がE-JUSTで指導する体制を制度化し、研究室教育の文化を醸成することに努めました。研究室での学びは知識や技術だけではありません。何のための研究なのか、社会に何をもたらすのか、研究を通じて何を実現したいのか等、教員は学生に問い続けました。ある学生は、このような日本人教員による問いと対話を通じた学びが、今の研究者としての自身の基礎になっていると言います。E-JUSTの博士課程の学生たちは、エジプト政府の奨学金により本邦大学に短期留学(6-9か月間)を行いますが、日本の研究室での活動を通じて、学生たちは更に研究室教育の価値を肌で実感することになりました。E-JUSTで学位を取得した学生たちが、今はエジプト各地の国立大学で研究室教育を実践しています。
研究室の様子
■工学部における理工基礎科目の徹底と実験実習を通じた理解の深化
2016年頃から、E-JUSTは学部設立に向けた準備を開始しました。当時、E-JUSTの大学院生を指導する日本の教員が指摘したのが、数学・化学・物理といった理工基礎科目が高校で十分学習できておらず、応用も利かないという現実でした。取り寄せたエジプトの高校の数学の教材を見ても、解法を覚えるだけで、応用力を培う教育になっていません。当時工学部設立をリードしていた鈴木正昭氏(E-JUST副学長)は、「エジプトの大学では、数学・化学・物理といった基礎教育がおざなりのままに、工学の応用を学び専門性を伸ばそうとする結果、公式を覚え当てはめ、正解を求める学習が一般的になっている」と指摘しました。そのため、E-JUSTの工学部では、「理工基礎科目」の学習を通じた基礎学力の獲得を徹底すること、更に実験実習授業を設計し、「実験実習を通じた理解の深化」を目指しました。いずれも東京工業大学の支援を得てカリキュラム開発を行ったほか、実験実習授業を支える教員や技術系職員を同大学に派遣して、実験実習法を教授し、教材の開発・導入を行いました。この理工基礎科目の学習の徹底と、実験実習を通じた理解の深化こそ、E-JUSTの工学部の柱の一つとなっています。
実習授業の様子 | 実習授業を支える技術職員 |
■国際ビジネス人文学部による日本式「ゼミ」教育の導入
エジプトでは知識を持つ教員が、知識を持たない学生に「知識を与える」ことが教育と捉えられています。そのため、効率よく知識を与えるための大教室での座学授業が中心になります。E-JUSTでは、学生同士の議論を通じた気づきの誘発や、自身の考えを発信する力、そして他者の意見を取り入れて自身の考えを発展させる態度の育成を目指し、日本の少人数で行う「ゼミ」形式の教育を導入しました。「知識を獲得する」ことを学習と考えていた学生たちにとって、オープンエンドな問いや学生同士のディスカッションを通じた学びは初めての経験でした。また、戸惑ったのは学生だけではありません。エジプト人教員にとって、ファシリテーターとして学生たちの学び合う「環境」を作るという概念の理解と実践は大変難しいものがありました。そのため、日本の教員との共同遠隔講義(Co-teaching)に加えて、最近ではE-JUSTのゼミや学生の卒業研究指導にも日本の教員が遠隔で参加する実践を行い、「ゼミ」教育の質の向上に努めています。担当するエジプト人教員は、「学生が主体的に授業へ参加し学生同士で学び合うことで、学生自身の学習意欲につながっている」とその効果を指摘します。残念ながら「ゼミ」授業は1-2年生対象に実施されていますが、E-JUST教員の中には自身の担当する授業で学生参加型、対話型教育といった「ゼミ」教育のコンセプトを取り入れるケースも現れています。
■最後に
2023年2月現在、教員一人当たりの論文執筆数は2014年以降エジプト国内で第1位、2021年TIMES世界大学ランキングアラブ地域で第22位、120名を超えるアフリカからの留学生に3,000名を超える学生たち。2010年に30名の学生で開講したE-JUSTも、今ではエジプトを代表する総合大学として発展を続けています。しかし、まだまだ課題も多いのが現実です。自律的な経営基盤、将来的な日本の大学との一層の連携の推進とそのメカニズム、産業界や学術界におけるE-JUST卒業生の評価の確立などの課題が挙げられます。今後も中東・アフリカにおける研究大学としてE-JUSTが着実に成長していけるよう日々取り組んでいます。
日本文化理解イベント | 2022年入学式の様子 |
参考文献:
岡野貴誠,「科学技術大学をエジプトに。砂漠の地で始まる大学造り、紡がれる人々の物語」,佐伯コミュニケーションズ,2022年
岡野貴誠,「国際協力の現場から見た日本の工学系大学院教育の特徴に関する一考察」,工学教育61-2,2013年
E-JUSTのプロジェクトニュースレター、概要等の資料はこちら
https://sites.google.com/ejust.edu.eg/jica-ejust-project/home
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■著者プロフィール
岡野貴誠(おかの・たかせい)
国際協力機構(JICA)専門家
経歴:大学卒業後、2000年に青年海外協力隊(視聴覚教育)としてブルキナファソ国に派遣。2006年より国際協力機構(JICA)人間開発部にJr.専門員として所属、主に高等教育及び情報通信分野の業務に従事。ハノイ工科大学ITSSプロジェクト(ベトナム)、トゥンバ高等技術専門学校設立プロジェクト(ルワンダ)への赴任を経て、2008年~2017年にエジプト・日本科学技術大学設立プロジェクト(エジプト)に9年間従事。その後2018年~2021年マレーシア日本国際工科院プロジェクト(マレーシア)に赴任後、2022年3月よりE-JUSTプロジェクトに再び赴任。現在、同プロジェクトチーフアドバイザー。
学位: Ph.D.(人間科学)
専門:教育工学、遠隔教育、工学教育
主な著書:「科学技術大学をエジプトに。砂漠の地で始まる大学造り、紡がれる人々の物語」(佐伯コミュニケーションズ,2022)、「途上国の学びを拓く-対話で生み出す教育開発の可能性-」(明石書店,2021)、「大学のゼミから広がるキャリア-構成主義に基づく「自分探し」の学習環境デザイン」(北大路書房,2020)